息が切れてきた。苦しさは茫洋としていてはっきりしない。足がもつれる。感覚は麻痺していて身体がうまく動かない。
 何に追われているのか、それすら解らずにただ雑木林の中を、逃げている自分。ぼんやりとした耳に確かに聞こえてくる足音。とてもじゃないが逃げ切ることは叶いそうになかった。
 振り返っては足を必死で動かし、酸素をどうにか取り込み、眩む視界を睨みつける。顔にぶつかる枝葉の鬱陶しさに耐え、気を抜けば足に引っかかる木の根にもどかしさを覚え、しかしなお恐ろしく迫り来るなにかから逃げ続ける。どちらにいけば逃げられるかだけを考えながら、もがくような思いで地を蹴り続ける。
 だがそれも限界、心が折れてしまう。
 不意に転んだのはなぜなのか。
 視線を向けることも考えをめぐらせることもできず、後ろを振り向く。はっきりしたものは見えなかった。
 だが、窒息するような蒸し暑い夜、憎たらしいくらい涼しげに浮かぶ満月の下で、私は確かに殺されたのだ。






























「うぅ〜・・・ん」

 頭が重い。全身を不快感が駆け巡る。鼻が通らない、喉がザラつく、目がショボショボして勝手に瞑ってしまう。寝汗が気持ち悪い、身体が倦怠感に包まれる。けど学校に遅れちゃう。そう主張する理性が不快感の前に負けてしまいそうだ。

「ああ、もう!!!!!!!!」

 意を決して、ガバッと起き上がる。
 差し込む陽が今日も夏日であることを予感させる。

「うげ・・・」

 げんなりする気持ちで窓を開けて換気する。
 いつもどおり気持ちよさそうに鳴くすずめの声が聞こえてくる。

「私は全然、気持ちいい朝じゃないわよ・・・・・・・、ちくしょ〜」

 きっとこの寝起きの悪さは父譲りに違いない。と、そこまで考えて何か忘れてるような気がしてくる。
 だんだんと意識が覚醒して思い出してくるのと同時に、すっと汗が引く。

「あれ・・・・・・、私なにか大切なことを・・・」

 そう、私は確実に忘れている。それだけは間違いないと確信できる。
 昨日の朝のテレビ番組で、バードリ鳩アナウンサーが伝えるニュースの順番を間違えたのは確実なことだし、小泉潤一郎はいまだに総理であることもまた確実だ。
 私が何かを忘れているのもそれらと同じぐらい間違いなく確実なことだ。

「私、忘れたのなら・・・・・・・・なんで忘れてるのだけ覚えてるの?」

 何かがひっかかっているような、あるいは何かが抜けかけているような陰鬱で忌々しい気持ちを抱えたまま私は朝を迎えた。









 学校へと向かう途中も何か釈然としない靄ついた感覚が思考を離れない。
 学校に向かう生徒達はこの季節、朝からグロッキーだけど、私も外から見たらそれ以上にグロッキーに見えるんだろうな。

「おはよ〜!千秋!」

 こんな太陽の照り付ける蒸し暑い日なのに、いかにも『さわやかな朝』といった雰囲気の元気な声が聞こえてくる。

「おはよう・・・・・玲(あきら)。あなたって絶対、温度とか感じてないわよね」

 返事と共に、この理不尽な友人に嫌味の一つでも言ってやる。
 強い日差しの中歩いているせいか、じわりと額に汗がにじんで来た。
 私はそんなに汗を掻くタイプではないことから考えると、今日の陽射がいかに強いものか想像もつこうというものだ。
 大体登校している連中は殆ど皆汗を拭ったり、垂れ流したり。こんな日に学校があるなんてどうかしてるとしか思えない。
 ハンカチを出して額を軽く拭い、ハンカチをしまう。

「いや、普通だよ?冬に水泳したらきっと冷たいどころじゃないし、夏にストーブ全開にして我慢大会なんかやったらもう立ち直れないって!」

 少し間があってから、こういった反応をするのが玲という少女だ。
 玲は私が何を考えて先ほどの言葉を言ったのか、彼女なりに考えていたのだろう。と思うのは、彼女をよく知らない証拠である。
 この子は多分、自分が温度を感じないかどうか考えていたのだ、おそらくはこれ以上ないほど真剣に。
 証拠に、腕を組みながら「うん、絶対無理だよ。」とか呟いて頭をコクコク頷かせているじゃない。
 それにしてもこの陽射の中でも汗一つ掻いてないこやつはドコの化け物かしら。私はこいつが涼しい顔で火の中を歩けるんじゃないかと疑っている。

「えい。」

「いはい。あひふふお?」

 何をしているのかといえば、この小娘の口を両側に引っ張っている。
 この陽射のなか学校に行くのもどうかしてるし、皆が汗掻いてヒィヒィいってるなか、涼しい顔して汗も掻いてない玲もどうかしてる。理不尽な怒りはやはり理不尽に発散するしかあるまい。そんなわけで私は玲の口を両側に引っ張っているのよ。
 頬を差し出せゴッド。平手で打って差し上げますから。
 なぜこの子の頬はこんなにさわり心地がいいのか。この子ばっかりずるい。
 こんなことばかりしてても仕方ないので指を放してまっすぐ歩き出す。

「まったく!千秋ってばお茶目さんだよね」

 しかたのない、というような仕草で私を見ている玲。
 ゴッド。今度は逆側の頬を張られたいのですか。

「あなたがそれを言う?」

 玲にお茶目といわれる日が来るなんて。
 ありえないことなのでとりあえず玲の頬を両手でぐにっと押しつぶす。やっぱりさわり心地は極上。生で食べてもおいしそうだ。

「む、む〜〜む〜〜!!む〜〜〜!」

 たこみたいな口で唸っている玲のほうがどう見てもお茶目ってものよね。
 玲の顔を押し潰したまま歩き続ける。
 うん、間違いなくこの子はお茶目だ。

「玲、あなたって本当にお茶目よね。羨ましいわ」

「おはよ、村越、朝野!」

 その声が聞こえた瞬間、背中に痛みが走る。私の背中を叩いてくるような知り合いは一人しかいない。

「いたっ!・・・おはよう、京子。いつも叩いてくれているけど、背中に跡が残ったら責任取ってくれるかしら?」

 いつも叩かれっぱなしではいないわ。たまには反撃してやらないとね。
 何を奢ってもらおうかしら。

「何言ってんの。朝野が村越をイジメてるから助けただけじゃん。まぁ、責任取れって言うなら別にいいけど?朝野は綺麗だしね。」

 髪が長く背が小さくて可愛らしい感じの玲と違い、男性的なショートカットに長身、そして可愛いというよりもハンサムな外見をしている京子が、私の腰を抱いて顔を近づけた。
 もちろん力は私よりも強く、うまく抵抗もできない。

「うぇ!?何言ってるのよ、あなたは。冗談はやめて慰謝料を払ってもらうことにするわ」

 仕方がないので京子の顔の前に手を出して、そう言う。
 私は何かを奢らせようと思っているだけなのに。 

「照れないでいいって!朝野、わたしが幸せにしてあげる!」

 こ、このワカラズヤが――!!
 この陽射の中抱きついてくる、普通!?

「あ、ずるいよ。あたしを仲間外れにしちゃ嫌だよ。」

 仲間外れになりたいのは私よ。ちょうどいいから私と替わってほしい。
 しかし、玲はそのまま抱きついてくる。その、私に。
 ミンミンというセミの鳴き声と、私たちを見てクスクス笑ってる通行人の視線と、抱きつかれたことによってより蒸し暑くなった温度。

「暑いってば、やめてよねこういうのー・・・・。」

 もう怒鳴る元気もなく、げんなりとした声で呟くのが精一杯。
 眩暈がしてきた、どうしてこんな暑い中で女三人団子になってるのよ。
 ん?顔になんか水みたいなものがかかった。京子の顔を見るとニヤニヤ笑っている顔は汗だくだ。

「ちょっ、京子、そんなに汗掻くくらい暑いなら止めなさいよ!」

 私が声を荒げると、京子は大好きな玩具を買ってもらえた子供みたいな満面の笑顔を浮かべる。

「その声!わたし朝野のその声を聞かないと学校に来た気がしなくってさぁ」

 京子は嬉しそうに言うと、私からあっさり離れて顔をハンカチで拭った。そのまま私たちの前を歩き出して、少しして振り向いて手でメガホンのような形を作って私たちに声を掛ける。

「はやく行かないと遅刻しちゃうぞ!」

 そんな事を叫んでいる京子に走り寄る私。この女には背中にもみじをつけてやるしかあるまい。その前に文句の一つでも言ってやらなければ気がすまない。

「あなたのせいでしょぉッ!?」

 そんな私に追いつかれまいと逃げ出す京子はすごく嬉しそうだった。
 私もなんだか怒るのも馬鹿らしくなってきて、つい笑ってしまう。

「ちょっと、二人ともまってよ!」

 後ろから走って付いてくる玲の声を聞きながら走って学校へ向かう。
 二人とのやり取りのおかげか、そのときの私の頭からは陰鬱な感覚は露と消えていた。





 なんとか予鈴が鳴り切る前に教室に飛び込んだ私たちはそれぞれの席でぐったりしていた。いや、約一名、汗一つかかずに平然としている娘もいるけれど。
 まったく馬鹿なことをしたものだった。この気違いじみた炎天下のなかに走ればこうなるのは予想がついたはずなのに。
 つまりは今の私と京子のような無様なこの醜態。本当、汗をかいても匂いは元々大したことはないし、スプレーでなんとかなる。
 では、醜態とはどういうことか。荒く息をつきながら机に突っ伏しているのは当然のこと、この肌に感じる地獄的な気持ち悪さからして、ベストの下はきっとすごいことになっているに違いない。

「うー・・・。」

 ああ、気持ち悪い。京子と目を合わせると非常に遺憾ながら心が通じ合ってしまった。
 もう、こんなことばっかりやってるから、私は成績も悪くないのに『女三馬鹿トリオ』とか呼ばれるのよね。
 息を整えながら、鞄の中の教科書やノートを机に移し、ぼんやりとした感覚のまま机に鞄をかける。
 本鈴が鳴り、朝のHRが始まると意識がぼやけてくる。私はここで寝てしまう気はないけど、疲れたのが原因かしら。まさか熱射病ということはないでしょうね。
 どういうわけか、加速度的に状態が悪くなってきている。倦怠が身体にとぐろを巻き、激痛が頭を粉々に砕く。
 視界が暗い、見えているのに視えていない。眼に映る教室の風景は脳まで届かない。
 声が遠い、聞こえているのに聴こえていない。耳に流れる教師の声は脳に響かない。
 意識がストンと落ちるというよりは、気持ち悪さで眼が眩むような――。

「――さの。」

 おぼろげな意識が病的に蝕まれてゆく中で、かろうじて名前を呼ばれたのに気付いた。
 開いた口から内臓がこぼれ出そうなのを我慢して、声だけを捻り出す。
 出席を取りはじめた教師におかしく思われないように、肘をついて頭を垂れる
。  長髪が顔を隠すとほぼ同時に、私の意識は引きずり込まれるように沈みつつあった。

 私はこれでも優等生で通っている。成績は常に上位を保っているし、授業だって寝たこともない。
 寝てしまったら信用は地に落ち、私の今までの努力は泡沫の夢と化すことだろう。
 泥沼の中でもがくように、ただ眼を開き、意識をとどめておくことだけに全身全霊を込める。
 視界は砂嵐めいていてはっきりした像を結ばず、聴覚には雑音が混じりほぼ何も聞き取れない。身体中の感覚が阻害されているように機能不全。
 ああ、授業が始まっちゃう。集中して、砂嵐の中から映像を拾い上げていく。雑音に混じった音声を聞き分けていく。
 
「今日は抜き打ちで確認テスト。各自、教科書とノートをしまって最低限の筆記用具だけを机に出すこと。」

 現代文教諭はそう言ってテスト用紙を五枚ずつに分けていく。列ごとに配るためにそうしているのだろう。



「――さの。朝野。・・・あ・さ・のぉ〜!」

 聞こえてくる京子のハスキーな声に、私は顔を上げる。

「京子?」

 あれ、おかしい。
 すこぶる悪かったはずの調子は普段どおり。視覚が砂嵐に覆われることも、聴覚に雑音が混じることもない。
 
「千秋、朝から居眠りなんて珍しいね〜」

 玲が向かい側であごを机に乗せて私を見ていた。相変わらずの能天気顔が少しといわず羨ましい。
 私を呼んだ張本人は玲の頭の上に腕を乗せて、意地の悪いニヤニヤ顔でこっちを覗き込んでいる。

「珍しいなんてもんじゃないって、朝野が居眠り?鬼の霍乱って言葉でも生温いんじゃない?明日は嵐か大雪さ。やった、学校休みじゃん」

 私の反応を見ながら嬉しそうにペラペラ喋る京子の頬を無言でつねる。

「いたい。ごめん、悪かった」

 私が指を放すとさっきとは一転、赤くなった頬を撫でながらこっちをまじまじと見た。

「マジで平気なの?まあ、まだHRが終わったばかりだから授業には差し障りないんだけどさ」

 は・・・?まだ授業が始まってない?それはおかしい。今は現代文の教諭がプリントを増刷している間の自習時間ではないのか。

「え、だって現代文は抜き打ちテストだったじゃない?」

 混乱していく私、だめ、おちつかなきゃ。
 まずは、少しづつ聞いていかなければ。私だけじゃなくて京子まで混乱してしまっては終わる話も終わらない。

「は・・・ねぇ、ちょっとホントに大丈夫?確かに次は現代文だけどさ、始まるまで、まだ10分近く時間があるよ?」

 本気でこっちを心配するようにこっちを見ている京子の真剣な瞳はとてもからかっているようには見えない。
 つまり、あれは、夢。酷く苦しく、激痛を伴う、良くわからない夢。
 脳漿が飛び散りそうな頭痛も、引きずり込まれて千切れそうな意識も、ぜんぶ全部夢だった。

「・・・・ええ。大丈夫よ、京子。夢を見てたみたい」

 内心の混乱は収まりつつあり、そう答えてみてやっと、ああ、あれはゆめだったんだ、と納得できた。

「千秋が夢で見た抜き打ちテストがホントにあったら、あたしもうダメかも」

 冗談めかして頭を抱えて見せてる玲だけど、もし本当にあったら最近授業を殆ど寝て過ごしているこの子は間違いなくもうダメよね。

「あ、でも悪あがきくらいはできるわよ。私の見た夢の通りなら、先生はプリントを増刷しに戻るもの」

 そう、確かプリントが足りていなかった。普通そんなミスはめったに起こることはないからやっぱり夢なのよ、あれは。

「さすが夢、わたしや村越に救いの手まで用意してあるんだね。――きっと潜在的に朝野はわたし達を愛してるんだ」

「本当?あたしも千秋も京子ちゃんすごく好きだわ。あいらびゅ〜、なんちゃって」

 などと、二人して手を握り合いながらこっちを見つめてくるもんだから反応に困る。この二人の頭にはきっとボウフラが湧いてるんだわ。夏になると耳やら鼻やらから蚊が大量発生するに違いないのだ。あ、想像したらちょっと鳥肌立っちゃったじゃない。

「うっ・・・」

 二人の顔を見たら本格的にぞわっと来てしまった。二人のこの整った顔から虫が湧く。そのさまは想像するだにおぞましい。

「ちょ、ちょっと千秋。その反応ね、すごくイヤよ」

「朝野ったら酷いんだ。本当に鳥肌立ててる・・・!」

 二人はどうやら私が二人の言葉を気持ち悪がって鳥肌を立てていると勘違いしているみたい。

「・・・違うわ。あなた達の脳にボウフラでも湧いてるのかと思ったものだから、それを想像しちゃって。」

 言ってみてから気付く。私ももしかすると結構変なのかもしれない。ふつうはそんな想像しないだろうに。

「げ、ひっど。なんでなんで?どうしてそんなこと想像するの?」

 傷ついて泣きそう、といった顔で私の腕を両手でつかんで揺する京子。

以下製作中。
SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO