止むことを知らず降り続く雨の音に、私の心はただ病むことしか知らず蝕まれ続けていった。




 お姉さまは私に次の約束を与えてくださらず、瞳子ちゃんと一緒に行くことを選んだ。
 仲睦まじい二人の姿に、心が踏みつけられてしまったように痛んだ。
 どこにあるかもわからない不確かなものなのに、押しつぶされた痛みで涙が止まらなかった。
 涙が出る前に私は逃げた。お姉さまの言葉を聞かずに、言いたい自分の言葉も言えずに。
 追いかけてくる瞳子ちゃんの声は真摯だったのに、背を向けて。
 ザァザァと叩きつける水滴が身体を濡らし、顔に当たった雨の飛沫が瞳を閉ざす。
 けれど、ここで止まってお姉さまとまた顔をあわせてしまうことの惨めさを思うと止まってしまうわけにもいかない。
 ドン、という音とともに誰かにぶつかってしまう。

「きゃ・・・、ご、ごめんなさい・・・」

 手で瞳をこすって目を開け、私はぶつかってしまった相手を確認する。

「紅薔薇の・・・つぼみ?何かあったんですか?あの・・・大丈夫ですか?」

 黒い大きな傘を差したその相手は、ワンレングスのロングストレートの黒髪をした長身の少女だった。
 傘を差したままぶつかってきた私を抱きとめ、彼女は心配そうに言葉を紡いだ。
 そんな彼女の真剣に見つめてくるその瞳さえ、今の私には辛い。

「ええ、ごめんなさい。・・・私、行かなくちゃ・・・」

 早く逃げないと、祥子さまが来てしまう。瞳子ちゃんと一緒に。
 校門の前にある黒塗りの車を見た瞬間、あれは祥子さまに関係するものかもしれないことに気づいて走る向きを変える。
 校舎の裏のほうに駆け出す。どうか、祥子さまに見られませんように。
 ああ、なんて虚しい願い事なのだろう。

 校舎の裏をずぶずぶの靴で、べちょべちょの地面を蹴って走る。
 びしょびしょの服がぴちゃぴちゃ音を立てて、そのたびに情けない気持ちになってくる。
 大好きな祥子さまのお気持ちが解らなくて、どっかにいっちゃった気がして、逃げ出して。
 こんなに無慈悲に降り続く雨の中で、ただ逃げ続けている私の足がもつれはじめた。
 身体全体が濡れてしまって私の頬を伝っているものが何なのかさえ良くわからなくなって。
 それどころか熱を帯びるようにぼやけ、ぐるぐると悲鳴をあげる頭のせいでここがどこだったかも良くわからない。
 拭ったはずなのに滲んでいく視界だけが、私が確かに泣いていることを証明していた。
 もう一度目を拭うと、ここが裏にある焼却炉の前だとようやくわかった。
 誰もいない焼却炉の前でひとり佇むと、強い雨音だけが静寂を支配した。
 まっしろな頭の中で、ただ辛さとやるせなさだけを感じる。

「寒い・・・」

 呟いてみて、ああ寒いのだ、と納得した。
 ここは、寒い。
 歩いていく。講堂の裏を通って、誰もいないグラウンドを通って、武道館の前を通って。
 通って、どこにいくというのだろう。どこにも向かわず、通って通って進んで戻って。
 なくした青い傘を幻視する。いってしまった祥子さまを幻視する。
 どこだか良くわからない、どこでもいいところで一人きり。かけたロザリオを外して、それと向かい合う。
 私は祥子さまを信じ続けることができずに目を背け、耳を塞いだ。
 ロザリオを突き返すこともできず、かといって言いたいことも言えず、聞きたいことも聞けなかった。
 ただ逃げてしまった私は、どうしようもなく惨めだ。
 信じることも突き返すこともできない私が嫌だった。
 ここまで自分を嫌いになったのは、きっと生まれて初めてに違いない。
 でも、心の中で残響するのは恨みがましい疑問の声。
 ねぇ、お姉さま。私はもう要らないんですか?
 お姉さま、私よりも瞳子ちゃんが大事なんですか?  もう、嫌で消えてしまいたいとさえ思う。
 ふらりと、私は歩き出した。
 けど、私は消えることもできないんだと唇を噛んで。
 私が情けなさと惨めさだけになっていくような感覚のまま、ゆっくりとバス停に向かった。
 ずぶずぶの格好のまま、どこまでも落ちていくような気分で家に帰った。
 何も考える気が起きなくて、それからのことは良く覚えていない。
 家に着いたとき、家族が大騒ぎしていたのだけは鮮明に覚えている。
 熱いシャワーを浴びて、明かりのない部屋の中でベッドに倒れこんだ。
 疲れきった体と、自分の部屋にいるという安心感からか、自然と嗚咽が漏れる。
 毛布を頭からかぶって、枕を抱えて涙を流し続ける。
 泣けば気分が落ち着くなんて絶対嘘。
 泣けば泣くほどお姉さまが浮かんできて、もっと涙も声も漏れてしまう。
 なんで、どうして、いつから?私の口から泣き声とともに呟きが漏れる。
 私が、なにかいけないことをしたっていうんですか、お姉さま。
 それとも、私なんかじゃお姉さまとは釣り合わないんですか。
 なら、なんで私にロザリオを――。
 平凡で平均点の私が恨めしい。
 蓉子さま、聖さま、やっぱり私にはなんにもありません。
 買っていただけるようなものなんて、何も。羨まれるようなものなんて、何も。
 だから、お姉さまも離れていってしまうんでしょうか。
 ・・・でも、マリア様。私、わるいことなんてしてません。
 悲しさと疑問でぐちゃぐちゃになっていく思考。
 引き裂かれるように痛む胸を、両手で掴むように抑えて涙する。

 なにもかも平均点って、うすっぺらで何もないってことだったのかもしれない。
 今日だって私は何もできなかったんだから。

 眠りに落ちるか落ちないかの刹那で、ふとそんな考えが泡沫のように浮かんで消えた。














 翌日の朝はいつもとは違った。
 憂鬱な気分のまま起き上がり、カーテンをあけて気が滅入る。
 それでもいつもどおりに朝の準備を終え、制服を着て、精一杯丁寧にタイを結んだ。
 いつもの癖で胸元を触ってみても、いつもの感触はない。
 ポケットの中に入っていたロザリオを顔の前に持ち上げて見つめる。
 お姉さまに返さなければいけない。これはもう、私が持ってちゃいけないもの。
 それでも、このロザリオを返している自分の姿が浮かんできて、視界がにじみ始めた。
 何も考えちゃいけない。何も考えちゃいけない。今は。
 ロザリオをポケットにしまって、癖の強い髪を撫で付けてまっすぐにする。
 リボンを手にとってみてからため息をつく。そしてそれもポケットの中に入れた。
 無理やり結わなくても、ちゃんと時間かければまとまるものなんだ、と妙に感心してしまった。

「祐巳!?どうしたんだ、その髪」

 鞄を持って部屋を出ると、祐麒の驚いた声が耳に入る。

「やだ、ただの気分よ。祐麒は大袈裟ね・・・ただ結ってないだけなのに」

 ただの気分よ。結ぶ気にさえなれない、というだけの。

「やっぱり昨日なんかあったんだろ?いったいどうしたんだよ、おかしいぞ祐巳。」

 本気で心配してくれるのが解る真剣さで、私にそう尋ねてくる。
 けれど、今の私にはその祐麒の気持ちに答えてやれる心の余裕も「なんにもないよ」という言葉もない。
 いま、少しでも心を動かしてしまえば、崩れてしまいそうで。

「祐麒、そろそろ私は行くわね。」 

 だから、それだけ言って玄関へ歩く。
 私はお母さんとお父さんに出掛けの挨拶をすると、心を顔に出さないように努めて学園へと向かうのだった。
 私の百面相のことだから、気をつけていないとさぞかしひどい顔になってしまうのだろうし。
 通学途中に挨拶を交わす回数も、いつもよりもずいぶんと少ない。
 ひどい顔をしてるからじゃなくて、きっと平凡すぎて気づかれないんだろう。
 トレードマークの短いツーテールが無ければ、きっと福沢祐巳とも思われていないんだ。
 けれど、福沢祐巳の噂だけはあちこちから聞こえてくるのだ。
 昨日今日から聞こえ始めていたわけではないけど、今は聞こえるだけで首を絞められているような気分。
 だから早足で、少しでも聞こえなくなるように人から離れて歩いていた。
 道端で会う人と挨拶を交わさないのも、やはり私だと思われていないからだろう。
 福沢祐巳だと思われない私。それでも私はどこにもいない、なんてことにはならない。
 この絶望的な気持ちごと消えてしまいたいと願っても、死という現実を前に立ち止まる自分への嘲笑。
 だからそう、私が福沢祐巳だと思われないのならいっそ、私が私でないならよかった。
 私という福沢祐巳が皆の知る紅薔薇のつぼみでなかったなら、また平凡な福沢祐巳でさえなかったなら。
 そこまで考えてしまうと陰鬱な気分が一段と増し、ため息をついてしまう。考えないようにする、なんて絶対無理。
 教室に入ると、流石にクラスメートは私だと解るらしくて、いつもどおりに挨拶をする。
 顔にださないように、笑顔で、笑顔で。私はいつもどおりに挨拶できただろうか。

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

 挨拶を交わしながら確認すると、由乃さんの席は空いていた。
 どうしたんだろう、と乾いたままの心に疑問が落ちた。
 けれど考えていても答えは出ないし、今の私は薔薇の館に向かうこともできない。
 とてもじゃないけど、ああして逃げ出した後に薔薇の館を訪れるなんて、臆病な私にはできそうにない。
 聖さまのように飄々とした態度も、蓉子さまのような気高い笑顔も、祥子さまのような誇りある毅然さも、平凡な私には遠いのだ。
 それどころか私は、山百合会幹部の誰かとも面と向かって話せないような気さえする。
 授業が始まる前に交わした真美さんや蔦子さんとの会話も、その場では受け答えはできたのに授業が開始するころにはもう何だったか覚えていなかった。
 お姉さま・・・・・祥子さまは、何を思い、何を考えているのだろう。
 考えちゃいけないと心の中で警鐘を鳴らす。けれど壊れてしまったかのように止まらない。
 もう、最近何度も浮かんだ質問。私はそれを悩み、疑い続けて生きることに疲れてしまったのではなかったか。
 けれど捨てきれず、信じきることができない望みに縋り続けている私。
 惨めになりたくないって、私はこれ以上ないほど無様なのにどうやって惨めになるというのか。
 あるいは誰かが手を差し伸べてさえくれれば、私は余分なことを考えることが出来るほどの余裕があったのだろうか。
 何処まで女々しいのだろうか。こういうときに心と身体は繋がってるのかもしれないと考える。
 食欲も振るわないし、頭からだって鈍痛がする。全身がけだるいのだってきっとこの心のせいだろう。
 涙が溢れてしまいそうになる。ああ、だから考えなければよかったのに・・・。
 私は昼休みになると、ひとりきりになれそうな静かな場所を探すことにした。
 それはおそらく必然でしかなかったのだろう。そこかしこで噂話が話されているのだから。
 聞こえないようにしてるつもりかもしれないけれど、聞こえてしまう。
 なんで?どうして?私たち姉妹のことを、あの無様で惨めな出来事をどうしてあちこちに広めようとするの?
 無数の噂や推測、ときには真実が私を貫き、引き裂き、苦しめるのだ。
 もう、聞きたくない。静かなところにいたい。助けて欲しいなんて贅沢は言わないから、せめて放っておいて。
 考えなければ、止まったままなら、ずっと涙を堪え続けないでも、過ごせたかもしれないのに。
 授業中は耐えていたけれど、もう駄目。ここにいたらぼろぼろ泣いてしまう。
 だから私は歩いた。中庭には誰もいなかった。聖さまが卒業なされたあと、この中庭の隅は基本的に閑散としたものだった。
 今日はここで昼をいただくことにしようと、弁当を広げて手を合わせた。

「にゃー」

 ランチ―――ゴロンタの登場だった。
 私は苦笑しておかずをゴロンタに放ってやった。
 そしてゴロンタが躊躇いなく食べだしたのを見て、ため息をつく。
 『ああ、ゴロンタは本当にたくましいなぁ。』と羨みながら、猫を羨む自分にため息をついたのだった。
 存外に青く晴れ渡り入道雲の浮かぶこの天気は、本来であれば気持ちよいものなのだろう。
 けど、今の私にとっては雨のままでしかなくて、気づけば呟いてしまっていた。

「ほんとうに嫌な天気」

 自分の声がとてつもなく醜いものに聞こえた。きっとさぞや厭な表情をしているんだろう。
 そういえば、今日はマリア様に手を合わせていなかった。
 私の中に振り続く雨は今もなお、止むことを知らずに心を蝕み犯していく。

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