食事が過ぎても、私はまだ中庭にいる。誰もいない、誰も来ないこの場所はひどく 落ち着けた。
 空も、校舎も、木も、草も、何もかも。色を失って雲に覆われたようにセピア。
 雨でも降っているかのような景色にしか見えないのに、暑くて息苦しくて汗が滲ん だ。

「ごきげんよう、祐巳さま」

 陽射しを遮るようにして、誰かが私の前に立っていた。
 学校は大勢の人間が過ごす場所、ずっと誰もいないままなんてことはない、よね。

「ごきげんよう・・・あなたは?」

 顔を向けてみると、それはどこかで見たような、けれど知らないような生徒だっ た。
 見かけたことくらいはあるのかもしれない、でもどこでだろう。

「私は一年生の細川可南子です、祐巳さま」

 そう言って礼儀正しく頭を下げる細川可南子ちゃん。

「え、ええ・・・」

 けれど、今は一人にしておいて欲しいのに。
 いったい、なんの用なんだろう?

「もしかして、お忘れでしょうか。昨日ぶつかった・・・」

 不安げに自分の顔を指差して、この顔に見覚えは?と尋ねてくる。
 見覚えがある。昨日、大きな黒い傘を差してて、ぶつかった私を受け止めた子。
 ぶつかってしまったのに、まともに謝りもせず私は逃げちゃったんだよね。
 普通は、怒って当然・・・・・。

「あ・・・・。ごめんなさいね」

 頭を深々と下げて謝る。きっとさぞ困惑したことだろうと思ったから。

「いえ、そんなことを責めにきたわけじゃないんです。私は祐巳さまが大丈夫だった なら、文句ありません。今は――」

 ゆっくりと首を振って、静かにこちらを見た。少し、頬を緩めたようにも見える。
 そして彼女は手に持っていたものをこっちに差し出してきた。

「これを、祐巳さまに。」

「これ・・・・」

 それは私の折り畳み傘だった。これを私を届けるために、彼女は私を探し回ってい たのだろうか。

「本当にありがとう、可南子ちゃん」

 申し訳なさと感謝が頭の中を塗りつぶしていく。
 何も考えられなくて、やっと出た言葉も気の利いたものなんかじゃなかった。

「・・・ありがとう・・・。」

 言葉が出てこない。なにか、言わないと。

「気になさらないでください。では、これで」

 私が感謝の言葉を考えている間にそう言って、彼女は踵を反した。
 少し歩いたところで彼女は振り向いて私に聞こえるくらいの大きさの声でこう言っ た。

「祐巳さまには微笑んでいて欲しいです」

 ぺこりと頭を下げて走っていってしまう彼女の後姿を見つめながらも、私は残され た言葉をただ反芻していた。
 悪意のない、純粋に笑顔でいられるようにと願う声だったからだろう。私は彼女の 言葉を不快とは感じなかった。
 そのあとは誰もこの中庭には訪れることなく、静かにすごすことができた。




 教室付近ではさっきよりもざわめきが強くなっていた。
 もうすぐ授業だから、だんだん声は静まっていくはずなのに。
 ふと、廊下に張られたリリアン瓦版に目が留まる。気のせいだろうか、今日はいつ もよりも瓦版を注視する人間が多い。
 私も瓦版の内容に目を通して、泣きそうになった。
 その日のリリアン瓦版には、昨日の出来事の顛末が書かれていた。
 細かい違いはあれ、大筋は本当に昨日のままで。
 ああ、お姉さま。本当にそういうことなのですか。と、心が泣き出してしまいそ う。
 思い出さないようにしていたお姉さまのこと。無理は承知でも今はまだ、忘れてい ないとここに立ってさえいられないのに。
 これ以上酷くなることはないと思ってた気分が、より深く沈澱していく。
 それでも歯を食いしばって、手を握り締めて、砕けそうな腰を必死で支えて、私は 冷静さを取り戻すべく息を吐いた。
 ごめんなさい、お姉さま・・・祥子さま。やっぱり私は、祥子さまのことを考えな いようにすることでしか自分を保っていることができません。
 どうしても考えてしまうけれど、それでも意識を逸らし続けるしかない、そうして ないと私は潰れてしまう。
 落ち着いてきた心が私の惨めなエピソードは余人の知るところとなったのだと理解 すると、私の心は仄暗い墓所にいるかのように暗澹としたものになった。
 どうしてこんなことをするのだろう。もしかすると見てるほうは面白いのかもしれ ない。
 けど、書かれてしまった私がどんな気持ちになるか、解ってはくれないのだろう か。
 新聞部というものに対して冷たい憎悪さえ覚えて、そんな自分の狭量を嘆く。
 眩むように廻る視界のまま席について、ざわめきが聞こえないように耳を塞いだ。
 そのざわめきが私たち姉妹のことを噂しているのでないと、どうして断言できよう か。だから、絶対聞きたくなかった。
 耳を塞いで、目を閉じた。真美さんに問いただすことさえ怖くて、私はこうして震 えている。
 授業はそんなに好きじゃないけど、普段と違って授業が始まったことで安堵でき た。

 終業のチャイムが鳴ると、私は途端に現実に放り出された。
 何も考えずに済む安息は終わったのだ。私は逃げるように教室を飛び出す。
 けれど今、正門にはこれから下校する生徒が殺到するのだろう。
 だから、私は学園内で少し時間を過ごすことにした。
 靴を履いて桜並木を歩き、銀杏の木々と入れ替わり、銀杏並木をぼんやりと歩いて いるうちに、講堂まで来てしまった。
 何も考えないように時間を潰すのも楽じゃないな、と小さく息をついて立ち止ま る。
 この講堂の裏手を回ってまた他の場所にでも行こうかと思い、ゆっくりと歩き出 す。
 角を曲がって裏手に回った瞬間に立ち止まってしまった。不意に、強く、胸を打た れた。
 そこは銀杏が主立って生えていたが、その中に一本だけ別の木が孤独に立ってい た。
 孤独なその木は銀杏が林立する木立において、なお美しい新緑の葉を揺らしてい る。
 この木は桜かな。
 私は傍まで歩み寄って確かめる。
 そうして、目を奪われた。強さを感じた。孤独を感じていた心が震えるのが確かに わかる。
 この木は、今の私のように孤独。独りぼっちでここにいる。
 けれど今の私よりもずっと永い間。独りぼっちでここにいる。
 それなのに、こんなにも強く根付いて大きく枝葉を伸ばしているのだ。
 春の桜のような華はないけれど、私はこの桜に目を奪われた。
 大切なモノを見失ってしまった孤独の心に、この桜の強さが染み入っていくように 思えた。
 表情もなく、ただ棒立ちで、風に吹かれるまま。
 頭をよぎるものがあった。
 こんな思いをするくらいなら、二度と他人など求めなければいい。
 その思考は私の疲れた心に静かに落ちていった。

「お姉――さま・・・?」

 強く吹く風がザァ、という葉鳴りをおこす。その音は強く打ちつける雨の音に似て いた。












 最近の私はひどく多忙だ。
 昨日の雨の日を境にそれはさらに激化した。
 以前から剣道部で忙しかった黄薔薇さまこと令さま、最近は早退なさったり、おや すみになることが多い紅薔薇さまこと祥子さま。
 そして少し前から薔薇の館に顔を見せなくなってしまった祐巳さん。
 つい最近までは嬉しそうに紅薔薇さまと遊園地に行けると喜んでいたのに。
 そして、その祐巳さんを誰よりも心配していた由乃さんは、一昨日の雨の日に風邪 を引いてしまったようだ。
 薔薇の館を飛び出したかと思うと、ずいぶんしてからずぶ濡れで戻ってきた。
 傘も差さないで走ってる祐巳さんを見て、ただ事ではないと思ったのだと自分のこ とを棚にあげて祐巳さんを心配していた。
 それでも祐巳さんは見つからなくて戻ってきたのだと由乃さんは言っていた。
 部活が終わった黄薔薇さまと帰ったのだけれど、翌日・・・つまり今日は薔薇の館 に来ていない。
 実質、薔薇の館での仕事は私と乃梨子の二人だけでこなしていた。
 けれど、つい先ほどのことだった。乃梨子はどうしても外せない用事があるのだと 言って帰ってしまった。

『本当にごめん、志摩子さん。今日は菫子さんに用事を頼まれてて、ちゃんと用事を 済ませないと菫子さんに怒られちゃうんだ。』

 申し訳なさそうに手を合わせる乃梨子を思い出す。そんなに謝らなくてもいいの に、乃梨子ったら。
 紙をめくる音とペンで書きつける音だけが部屋を支配する。
 一人で作業し始めて、そろそろ一時間半は経ったのかしら。
 私は少し休憩することにした。すこし、外を歩くのもいいかもしれない。
 散歩してから仕事に戻ることにして、私は薔薇の館を出た。
 足はひとりでに中庭に向き、そして講堂のほうへと向かっていく。
 やっぱり歩きなれたところに向かってしまうのね。
 銀杏並木を通るとき、今年の秋が少しだけ楽しみになった。
 去年拾ったギンナンはおいしかったから、今年も拾わないと。
 講堂の角を曲がって裏手に出たとき、誰もいないと思ってたそこには先客がいた。

「お姉――さま・・・?」

 呟いた私の声のあと、強く吹く風がザァ、という葉鳴りをおこす。
 それはひどく孤独でうつろな後姿だったからか。
 いるはずのないお姉さまのように私には見えてしまった。
 振り返ったあとでさえ、私は目の前にいるのがお姉さまのような錯覚を覚えたま ま。
 そう、似ているにはずもない。だってそこにいたのは知っている相手。

「・・・・志摩子さん」

 けど、本当に彼女なのだろうか。トレードマークもなく、笑顔もなく、元気もな い。

「祐巳・・・さん・・・」

 声に出してみてようやく納得する。目の前にいるのは間違いなく祐巳さん。
 でも、かけるべき言葉が見つからない。きっと祥子さまと何かがあったことは簡単 に想像がつくけれど、私はどう言葉をかけていいか解らない。
 祐巳さんが心配なら声をかけるべきなのに、私は踏み込むのが怖くて、傷つけてし まうのが怖くて言葉をかけることができない。
 私は由乃さんのようにはなれない。でも――。
 私が何かを言い出そうとしているのを察したのか、祐巳さんは申し訳なさげに、少 し寂しそうに笑った。

「ごめん、志摩子さん」

 そう言って、祐巳さんは歩いていってしまった。
 ああ、やっぱり気のせいじゃない。似てもいないのにそっくり。
 あの表情も、雰囲気も、どこか。

『ごめん、志摩子』

 そう言って少しだけ微笑む佐藤聖のありえない姿が浮かんでしまうほどにそっくり だった。
 祐巳さんもまた、私たちと同じように『囚われて』しまったのかしら。
 きっと祐巳さんも私が同じだって気付いてしまったのね。
 だから『ごめん』という言葉にはすごく色々な意味があった。
 それが祐巳さんの優しさだから。お姉さまがお姉さまの優しさから口に出さなかっ たその言葉を口にしたのだろう。
 違うけれど同じなのが私たち。同じだけれど違うのが私たち。私なら、一体どうし たのだろうか。

to be continued... 本編へ
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